東南アジア王朝史~ 6

18世紀入ると大陸部では後のミャンマー、タイ、ベトナムの母体となる王朝の勢いが強まり、勢力争いを重ねながら次第に国の領域を固めていきます。同時に欧州列強の進出が進み、東南アジアの国々は植民地化され、諸王朝は衰退の時代を迎えます。

2025.04.02

コンバウン朝 KONBAUNG <1752~1886年>

18世紀中頃にタウングー朝を滅ぼしたモン族は、さらに北上を続けてビルマ族の土地への侵攻を続けました。1752年、ビルマ中部の町モーソーボ(現シュエボー)の首長アウンゼーヤは周囲のビルマ族の集落を併合してこれに対抗。モン軍を撃退し、自らをアラウンパヤー王と称してコンバウン朝を創設しました。

1754年にアラウンパヤー王はモン族に奪われた旧都インワを奪回。その勢いのまま南に進軍して、翌年には仏教の聖地ダゴンを陥落させてヤンゴンと改名します。さらにモン族の本拠地であるバゴーを征服し、1757年にはビルマ統一を成し遂げました。

その後もコンバウン朝の王は領土の拡大に意欲的で、周辺国への進軍を重ねています。第3代シンピューシン王は東方のタイやラオスに侵攻し、1767年にアユタヤを陥落させます。第6代ボードーパヤー王の時代には西側のアラカン地方(現ラカイン州)、インド北東部にまで支配を広げ、ビルマの領土を最大にしました。

コンバウン朝の歴代王は新都の建設にも熱心で、初代アラウンパヤー王が建設したシュエボーにはじまり、サガイン、インワ、アマラプラへと遷都を繰り返します。1859年には第9代ミンドン王が最後の王都となるマンダレーを建設。聖地マンダレーヒルを中心に、壮麗な王宮や世界最大の経典といわれるクトードーパゴダなどが造られました。

19世紀に入っても領土の拡大を目指したコンバウン朝はインド方面に勢力を広げました。これが当時インドの大半を支配していた英国との対立を招き、1824年には英緬戦争が勃発します。コンバウン朝ビルマは3次にわたる戦争のなかで徐々に領土を失い、1885年に王都マンダレーは陥落します。最後の王ティーボーはボンベイに幽閉され、1886年にビルマは英領インド帝国に併合され、コンバウン朝は滅亡しました。これがミャンマーにおける最後の王朝となりました。

コンバウン朝最後の王都マンダレーの中心にある王宮跡。第二次大戦時に英印連合軍と日本軍の戦闘によって焼失したが、1990年代に建物が再建された。
コンバウン朝最後の王都マンダレーの中心にある王宮跡。第二次大戦時に英印連合軍と日本軍の戦闘によって焼失したが、1990年代に建物が再建された。
1783~1823年と、1841~1857年の2度にわたってコンバウン朝の王都となったアマラプラ。町に残るウーベイン橋は2度目の遷都時にインワの王宮から運ばれたチーク材で建造され、現在も利用され続けている。
1783~1823年と、1841~1857年の2度にわたってコンバウン朝の王都となったアマラプラ。町に残るウーベイン橋は2度目の遷都時にインワの王宮から運ばれたチーク材で建造され、現在も利用され続けている。

トンブリー朝 THON BURI <1767~1782年>

トンブリー朝時代に王室の守護寺院として改修されたワット・アルン。当時は「夜明けの寺」を意味するワット・チェーンと呼ばれた。
トンブリー朝時代に王室の守護寺院として改修されたワット・アルン。当時は「夜明けの寺」を意味するワット・チェーンと呼ばれた。

18世紀、現在のバンコク、チャオプラヤー川西岸のトンブリーに興った王朝。創建者は中国潮州系タイ人のタークシンで、1767年にアユタヤを破壊して占拠していたビルマ軍を撃退。タイの独立を回復した英雄として王に即位しました。

タークシン王は周辺の勢力をまとめてアユタヤ朝時代の領土を回復させ、さらにカンボジアのアンコール地方やバッタンバンを併合。ビルマの勢力下にあった北部のランナー朝とランサーン朝を平定し、およそ10年で現在のタイとラオス、カンボジア北西部におよぶ地域を支配下に置きました。

タークシン王は清へ朝貢し、中国からアユタヤ朝の後を継ぐシャム王として承認されますが、1782年、タークシンを精神異常と主張する宮廷の反対勢力により処刑されてしまいます。このクーデターによりトンブリー朝はタークシン王一代のわずか15年で終焉。かわってタークシン王に仕えたチャクリー将軍が王に即位し、チャオプラヤー川対岸にチャクリー朝(ラタナコーシン朝、バンコク朝ともいう)を創設しました。

チャクリー朝 CHAKRI <1782年~>

バンコク王宮の敷地内にある王室守護寺院ワット・プラケオ。本堂にはラーマ1世がラオス遠征から持ち帰ったエメラルド仏が祭られている。
バンコク王宮の敷地内にある王室守護寺院ワット・プラケオ。本堂にはラーマ1世がラオス遠征から持ち帰ったエメラルド仏が祭られている。

1782年に始まり、現在まで10代にわたって続くタイの王朝。創設者チャオプラヤー・チャクリーはアユタヤ王族の出身で、トンブリー朝時代には軍を率いて各地に遠征した猛将として知られ、民衆に推挙されて王位を得たと伝わっています。

それまでのトンブリー王都とはチャオプラヤー川をはさんだ対岸にあるラタナコーシン島に新王都クルンテープ(バンコク)を建設し、ラーマ1世として即位しました。

ラーマ1世は即位後も武人として活躍し、たびたび進軍してきたコンバウン朝ビルマを駆逐。国内を安定させると、タイの民族叙事詩ラーマキエンの再編集を行うなど、戦乱期に散逸した文学の復興にも取りくみました。

続くラーマ2世、ラーマ3世の治世下では、隣国のビルマが英国の侵攻に苦しんだことでその脅威が薄れ、タイ国内はより安定した時代を享受します。中国との交易で得た莫大な利益をもとに多くの寺院が建立・修繕され、国内のインフラ整備が進みました。

アユタヤ朝時代に建設され、チャクリー朝時代に王室寺院として保護されたワット・ポー。ラーマ3世の命により造られた巨大な涅槃仏で知られる。
アユタヤ朝時代に建設され、チャクリー朝時代に王室寺院として保護されたワット・ポー。ラーマ3世の命により造られた巨大な涅槃仏で知られる。

19世紀半ばになると欧州諸国の圧力が強まり、ラーマ4世の時代にはイギリスと通商条約を結び開国。外国人顧問を多数受け入れ、産業の近代化に取りくみます。続くラーマ5世は積極的な近代化政策をとり、西洋を手本に交通や通信インフラを整え、中央集権国家の基礎を整備。地方の小王国を廃止し、絶対王政による国家統一を成し遂げました。ラーマ5世は支配下にあったラオスやカンボジア、タイ南部をフランスとイギリスに奪われますが、巧みな政治交渉でタイの独立を死守。東南アジアで唯一、タイは植民地化を免れました。

ラーマ7世の時代、1932年に起こった立憲革命により、タイの政治体制は王が直接政治に関わらない立憲君主制に移行。チャクリー朝の王権は実質的に失われましたが、その後もタイ王国の君主として国民に敬われています。

阮朝 NGUYEN <1802~1945年>

古都フエのシンボルともいえる阮朝王宮。中国の北京にある紫禁城を模した造りが特徴。
古都フエのシンボルともいえる阮朝王宮。中国の北京にある紫禁城を模した造りが特徴。

古代から南北に分かれて諸王朝が対立してきたベトナムにおいて、歴史上はじめて南北を統一したのが阮朝です。創始者の阮福暎(グエン・フックアイン)は先の黎朝後期にベトナム中部で台頭した広南阮氏の出身で、一族は西山党との争いで滅びますが、阮福暎だけはタイへ亡命。のちにタイのラーマ1世とフランスの支援を受けてベトナム南部に侵攻し、1802年、およそ10年にわたる西山党との戦いに勝利しました。同年、広南阮氏の拠点であった中部のフエを王都に定め、嘉隆帝(ザーロン帝)として即位。嘉隆帝は中国清朝に朝貢して従属し、清の皇帝から与えられた越南(ベトナム)を国号としました。

阮朝は宗主国である清朝に倣って科挙制度や省区分の地方制度を整備して中央集権化を推進しますが、1820年に即位した第2代の明命帝(ミンマン帝)の時代には地方の反発が高まり各地で内乱が発生。対外的にはタイとの関係が悪化し、カンボジアやラオスをめぐる戦争で国は疲弊していきます。

同時にヨーロッパ列強の進出が活発となり、1858年にはフランス・スペイン連合艦隊がダナンを占拠してベトナムに進軍します。翌1859年のサイゴン占領に続き、1880年代には北部も制圧され、1887年、ベトナムは仏領インドシナに取り込まれます。

阮朝の宮廷はフランスの保護のもとで形式的には存続しましたが、王としての実権は失われました。1945年、日本軍の侵攻を機に第13代保大帝(バオダイ帝)がフランスからの独立を宣言するも、ホーチミン率いるベトナム独立同盟が蜂起。8月革命により保大帝が退位し、阮朝の歴史は終焉しました。

第4代トゥドゥック帝が眠る帝廟で、王は生前からここを別荘として滞在を楽しんだという。フォン川の畔にはほかにも阮朝歴代王の廟が点在していて小舟で川を下りながら訪ねることができる。
第4代トゥドゥック帝が眠る帝廟で、王は生前からここを別荘として滞在を楽しんだという。フォン川の畔にはほかにも阮朝歴代王の廟が点在していて小舟で川を下りながら訪ねることができる。

<阮朝に関連する世界遺産>

「フエの建造物群 Complex of Hue Monuments」

◆ベトナム◆1993年登録

ASEAN 諸国の世界遺産
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