東南アジア王朝史~4
13世紀頃、東南アジアの大陸部では現在へと続く民族王朝が台頭しました。島嶼部では港市国家が栄え、南シナ海とインド洋を結ぶマラッカ海峡を中心に、琉球王国からの貿易船やポルトガルなどヨーロッパ諸国からの商人らが来航し、交易活動が盛んにおこなわれました。15世紀から17世紀にかけて、東南アジアはマラッカ王国などの交易都市の発展により「交易の時代」と呼ばれる時代に突入しました。
スコータイ朝 SUKHOTHAI < 13~15世紀頃>
スコータイ朝は、13世紀後半、現在のタイ北部チャオプラヤー川流域に成立したタイ族初の王朝です。中国の雲南地方から南下してきたタイ族が、チャオプラヤー川支流のヨム河畔に都を置き、アンコール朝の崩壊とともにクメール人勢力を追い出すことで成立しました。初代王にはバーンクラーンハーオが即位しました。
水に恵まれた土地柄、稲作を中心に農業を発展させ「水に魚あり、田には米あり」と謳われるほど、豊かな国力を持ちました。
13世紀末には、「幸福の夜明け」を意味する「スコータイ」の名の通り、幸福な時代を迎えます。3代王ラームカムヘンの時代にスコータイ朝の全盛期が訪れました。
ラームカムヘン王の時代は文化面での成長も著しく、クメール文字から独自のタイ文字が生み出されたことでも有名です。また、元から陶工を招いて作らせたことが始まりとされる、サンカローク焼の生産も始まり、日本でも宋胡録(すんころく)焼として輸出されました。
また、国教として上座部仏教が保護されました。上座部仏教では仏舎利(釈迦の遺骨)を納めた仏塔が広大な草原や丘陵地に多く建立されました。
ラームカムヘン王は政治、文化ともに功績を残したことから、現在でも、偉大なタイ三大王の一人として崇められています。
15世紀中頃にはタイ南部、チャオプラヤー川下流で興ったアユタヤ朝の属国となり、約200年の歴史に幕を閉じます。
<スコータイ朝に関連する世界遺産>
「古都スコタイと周辺の古都 Historic Town of Sukhothai and Associated Historic Towns」
◆タイ◆1991年登録
マジャパヒト王国 MAJAPAHIT <13~16世紀頃>
ジャワ島中東部を中心に栄えた、インドネシアで最後のヒンドゥー教王朝です。13世紀末、シンガサリ朝が内乱で倒れた後、元軍を撃退したヴィジャヤによって建国されました。都をプランスタス川流域のマジャパヒトに置き、14世紀中頃、ハヤム・ウルク王の時代に最盛期を迎えます。
積極的に交易ネットワークを形成し、海上交易を中心に栄えたマジャパヒト王国は、当時マラッカ海峡で隆盛していたシュリーヴィジャヤ王国を滅ぼし、東南アジアの米や香辛料の交易権を確保します。
インドネシア各地への遠征を行った結果、その支配は現在のインドネシアのほぼ全域とマレー半島南部にまで及びました。また、明への朝貢貿易を独占し、海上交易において広大な力を維持し続けました。
文化面では、インドネシアの伝統的な染物であるバティックや伝統音楽のガムランなど、今日に受け継がれる様々な文化の原型が生まれた時代だとされています。また、『デーシャワルナナ』『パララトン』という現地語による歴史書も生み出されました。
16世紀にはマラッカ王国や、同じくジャワ島で成立したマタラム王国などイスラム教国家の台頭により海上交易の中心国が取って代わり、マジャパヒト王国は滅亡しました。
マラッカ王国 MELAKA <14~16世紀頃>
14世紀末、マレー半島南部で栄えた港市国家です。パレンバン出身でシュリーヴィジャヤ王国最後の王子であるパラメスワラが対岸のマレー半島の南部へ逃れ、建国したことに始まりました。
王国の成立当初は周辺のマジャパヒト王国やアユタヤ朝に攻められ、存続の危機に瀕していたマラッカ王国は、明の永楽帝が派遣した鄭和の遠征隊の補給基地として機能し、明への朝貢を行うことで独立を守りました。そして、インド洋における香辛料の交易中継地として大きく発展しました。交易のやりとりで広まったマレー語は、東南アジア海域での商業における「共通語」として浸透していったほど、マラッカ王国が東西交易の中心であったことがわかります。
15世紀中頃には国王がイスラム教へと改宗し、イスラム教が本格的に浸透することになります。その背景には、ムスリム商人との交易を積極的に行ったことでイスラム教が取り入れられたことが挙げられます。他にも、ジャワ島やスマトラ島、マレー半島、フィリピン南部など東南アジアの島嶼部各地でイスラム教が浸透しました。
海峡に面するマラッカ王国は1511年に当時アジアへ進出していたポルトガルによって占領され、マラッカ王国を拠点として活躍していたマレーの商人たちは、東南アジア各地へ分散し、ヨーロッパ列強による支配の時代に入りました。
<マラッカ王国に関連する世界遺産>
「マラッカとジョージタウン、マラッカ海峡の古都群 Melaka and George Town, Historic Cities of the Straits of Malacca」
◆マレーシア◆2008年登録
陳朝 TRAN <13~14世紀頃>
13世紀前半、李朝の外戚である陳太宗(チャン・タイ・トン)氏によって建国されたベトナムの王朝です。李朝と同じく、首都を昇龍(現在のハノイ)に置きました。
政治、文化面ともに中国の影響を大きく受けており、科挙制度などの官僚制の整備を進めました。紅河デルタの開拓にも力を注ぎ、大規模な堤防を建設することによって稲作事業が大いに発展しました。
13世紀中頃には、周辺諸国に朝貢を求めたフビライ・ハン率いる元軍の侵攻を三度にわたって受けましたが、陳朝は撃退することに成功しました。
元軍との戦いの中で大いに活躍した武将である陳興道(チャオ・フン・ダオ)は、現在も民族英雄として多くの人に親しまれています。他国からの侵攻から国家の独立性を守ったことは、当時のベトナムの人々にとってアイデンティティを確立するきっかけにもなりました。
文化面では、漢字をもとにしてベトナム独自の文字、「字喃」(チュノム)が生まれました。歴史書である『大越史記』も陳朝の時代に生まれました。
14世紀後半にはチャンパによる襲撃を受け、滅亡の手前まで追い込まれたのち、最終的には明によって滅ぼされました。
ペグー朝 PEGU <13~16世紀頃>
ビルマのエーヤワディー川の南部、ペグー(現在のバゴー)に13世紀末に成立したモン族による王朝です。ワレル王によって建国されたペグー朝は、ベンガル湾での交易を中心にマラッカ王国やインドとの貿易中継地として機能した港市国家として栄えました。ワレル王の時代には、ビルマに現存する最古の法典『ワレル・ダンマタ』が編纂され、後に作られる法典の基礎にもなっています。
ペグ―朝の時代でもバガン朝に続き上座部仏教の信仰が盛んで、現在も上座部仏教の聖地として多くの人がバゴーを訪れます。
15世紀末にはビルマ人によるタウングー朝が台頭。ペグ―北側を拠点とするタウングー朝の二代王、ダビンシュエー王によってペグ―朝は滅亡しました。