東南アジア王朝史~3

9~13世紀の東南アジアは、農業を基盤にした内陸部を拠点とした国家が発展していきます。 広大な平原にはアンコール朝やバガン朝、ジャワ島の山麓ではクディリ、シンガサリの王朝が繁栄しました。 また、文化面では、ヒンドゥー教と仏教が重なり合い、独自の文化が形成されていきました。

2023.10.11

アンコール朝 ANGKOR< 9~15世紀頃>

スールヤヴァルマン2世によって建てられた「アンコール・ワット」。
スールヤヴァルマン2世によって建てられた「アンコール・ワット」。

現在のカンボジア北西部、トンレサップ湖北岸のシェムリアップ一帯に興ったクメール人による王朝。9世紀初頭、ジャヤヴァルマン2世が、メコン川中流域で勢力を拡大していた真臘を統一し、初代王に即位しました。

12世紀には、スールヤヴァルマン2世が東方はチャンパ王国、西方はタイやビルマまで領土を拡大して国力を強め、アンコール朝は最盛期を迎えます。そして、ヴィシュヌ神に捧げる護国寺として東南アジア最大の寺院「アンコール・ワット」を建設します。

四面仏尊顔を祀るバイヨン寺院を中心に、頑丈な城壁で囲まれた「アンコール・トム」
四面仏尊顔を祀るバイヨン寺院を中心に、頑丈な城壁で囲まれた「アンコール・トム」

12世紀初頭、チャンパ軍の侵攻によってアンコールの都は一時期占領されますが、王都を奪還したジャヤヴァルマン7世によって国力は回復しました。

熱心な仏教徒でもあったジャヤヴァルマン7世は、新しい都城「アンコール・トム」を完成させたほか、母の菩提を弔うための「タ・プローム」など多くの仏教寺院を建立。

「すべての道はアンコールへ」の由来にもなった道路網の整備を進め、各地に宿駅や病院を設置して一大帝国を築きました。

14世紀後半からシャム人によるアユタヤ朝が勢力を拡大し、アンコール王都はアユタヤ軍の度重なる侵攻を受けて徐々に衰退。1431年アユタヤ軍によりアンコール・トムは陥落し、およそ600年続いたアンコール朝は幕を閉じます。

少なくとも26人いたとされるアンコール朝の歴代王は、そのほとんどが世襲制ではなく、戦闘を伴う政争に勝利して王位に就いたといわれています。即位後は自身の神格化とその権威を示すため、新たな王都や寺院の建設に着手しました。その結果、それぞれ王による時代背景や宗教観を映し出す膨大な数の建造物が残され、それらがアンコール遺跡群として今日に受け継がれています。

<アンコール朝に関連する世界遺産>

「アンコール遺跡群 Angkor」
◆カンボジア◆1992年登録

クディリ朝 KEDIRI<10~13世紀頃>

10世紀初頭、プランバナン寺院などを築いた古マタラム王国が、インドネシアのジャワ島中部から東部のクディリへ遷都したことで、クディリ朝は誕生しました。遷都の理由には中部ジャワのムラピ山の噴火や疫病の蔓延なども挙げられていますが、産業振興により有利な土地へ移ったというのが有力視されています。

クディリでは、まずジャワ島で2番目の流域面積を誇るブランタス川の治水事業を行い、農業生産の増大と安定化を実現。さらにブランタス川の水運を利用してマラッカ海峡へと進出し、中国やヨーロッパとの香辛料の交易中継地として栄えました。

文化面では、ジャワ島独自の伝統芸能ワヤン・クリ(影絵芝居)が誕生。2009年にはユネスコの無形世界文化遺産にも登録されています。また、叙事詩『マハーバーラタ』などのインド文学がジャワ語に翻訳されました。

13世紀前半、クディリ王と僧侶の対立をきっかけにジャワ島東部のトゥマーペル地方の領主ケン・アンロックが台頭。討伐に向かった国王軍とケン・アンロック率いるトゥマーペル軍が激突し、トゥマーベル軍が勝利します。この戦闘によってクディリ朝は滅ぼされ、シンガサリ朝へと移行します。

 

影絵芝居は現在もジャワ島やバリ島で行われている。
影絵芝居は現在もジャワ島やバリ島で行われている。

シンガサリ朝 SINGHASARI<13世紀頃>

ジャワ島東部にそびえたつブロモ山。麓にはヒンドゥー教寺院やシンガサリ朝時代の遺跡が数多く残る。
ジャワ島東部にそびえたつブロモ山。麓にはヒンドゥー教寺院やシンガサリ朝時代の遺跡が数多く残る。

ジャワ島東部のシンガサリ地域で、クディリ朝を滅ぼしたケン・アンロックによって建てられた国です。現在のスマトラ島パレンバン、シュリーヴィジャヤまで勢力を拡大し、交易では、クディリ朝の事業を引き継いで、積極的にジャワ島外との交易を図ります。

13世紀末には内乱が起こり、国王クルタナガラ王が殺害されます。同時期にフビライ・ハンが率いる元軍がジャワ遠征で到来し、シンガサリ朝は混乱の時代を迎えました。国王の女婿であるヴィジャヤが反乱軍を鎮圧し、元軍の協力を得て王位に就いたのちに元軍を追放し、マジャパヒト王国を開きます。

バガン朝 BAGAN<11~13世紀頃>

黄金に輝く仏塔「シュエズィーゴン・パゴダ」。初代アノーヤター王が建造に着手し、息子チャンスィッター王の時代に完成。境内には木彫りのジャータカ(釈迦の前世物語、本生譚)や強い霊力を持つとされるナッ神を祀る祠がある。
黄金に輝く仏塔「シュエズィーゴン・パゴダ」。初代アノーヤター王が建造に着手し、息子チャンスィッター王の時代に完成。境内には木彫りのジャータカ(釈迦の前世物語、本生譚)や強い霊力を持つとされるナッ神を祀る祠がある。

ピュー王朝が滅びた後の9世紀、エーヤワディー川中流域の平地にビルマ族が南下し居住をはじめました。灌漑農業を基盤に発展し、11世紀中頃にはアノーヤター王によって、ビルマ族最初の統一国家としてバガン朝が建国されました。

当時、王の権力を凌ぐほど力をつけていた大乗仏教の僧侶、アリーの集団を解散させるためアノーヤター王は上座部仏教の信仰を導入しました。涅槃への到達を願う信仰心から、仏教寺院やパゴダ(仏塔)が次々と建てられたことで「建寺王朝」といわれています。

 

バガン遺跡はアンコール、ボロブドゥールと並ぶ世界三大仏教遺跡のひとつ。平野部の一帯には2000を超える遺跡が林立する。
バガン遺跡はアンコール、ボロブドゥールと並ぶ世界三大仏教遺跡のひとつ。平野部の一帯には2000を超える遺跡が林立する。

13世紀後半、国力を寺院やパゴダの建立に費やし続けた結果、国家の財政は衰えつつありました。国力が弱まっている中で、元のフビライ・ハンによる侵攻を受け、隷属することで約250年間続いたバガン朝は滅びます。バガン王朝に次いで、ビルマ人によるビルマ再統一がなされるのは、16世紀タウングー朝の時代です。

<バガン朝に関連する世界遺産>

「バガン Bagan」

◆ミャンマー◆2019年登録

李(リー)朝 Lý<11〜13世紀頃>

ベトナムの歴代王朝の都が置かれたタンロン遺跡。各時代の遺構が残る。
ベトナムの歴代王朝の都が置かれたタンロン遺跡。各時代の遺構が残る。

11世紀、李公蘊(リ・コン・ウアン)太祖によって創建された、ベトナム人による史上初の長期王朝です。

首都であった華閭(ホアルー)から北上し、紅河デルタ中心部に位置する昇龍(現在のハノイ)に遷都しました。

長く中国の支配下にあったことから、科挙制など積極的に中国の政治システムを取り入れるほか、儒教や仏教を導入していきます。国際的な地位を高めていき、「安南国王」の称号を授与され、国号を「大越」へ改めました。

紅河デルタでの稲作や、地形や気候に合わせた農業生産を主流にしながら、南海交易も盛んに行いました。一方で、同じく港市国家として繁栄したチャンパや、アンコール朝と激しい衝突を繰り返していました。

12世紀後半から暗君が続き、国内では人口増大に対して農作物が不足するなど、政府に対する不満が高まった地方勢力の反乱により混乱。1226年、国政の実権を握った陳守度により王位が陳一族に移り、9代217年に及んだ李朝は終焉しました。

 

タンロン遺跡内には歴代のベトナム王朝の遺構が重なって残る。
タンロン遺跡内には歴代のベトナム王朝の遺構が重なって残る。

<李朝に関連する世界遺産>

「タンロン遺跡 Central Sector of the Imperial Citadel of Thang Long」

◆ベトナム◆2010年登録

ASEAN 諸国の世界遺産
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