東南アジア王朝史~1
東南アジアでは古代から民族や宗教の異なる大小数々の王朝が誕生し、栄枯盛衰の歴史が繰り返されてきました。今日の多様性に満ちた東南アジアの国々をより深く知るために、歴代諸王朝の大まかな歴史をご紹介します。
東南アジアの先史時代
東南アジア地域で人類の営みが始まった時期は定かではありませんが、およそ4万年~2万年前の旧石器時代には、洞窟や岩陰に居住し、石器を用いた狩猟、採集、漁労による生活をしていた痕跡が各地に残されています。
紀元前2000年紀には東南アジアに稲作が伝わり、農業を基盤とする小規模な集団社会生活が始まったとされます。紀元前5世紀頃には各地で小さな部族単位のムラが形成され、それらが統合を繰り返しながらより大きなクニへと発展。文化的に先行する中国やインドの影響を受けながら、紀元1世紀頃には王を中心とする国家が生まれたと考えられています。
<先史時代に関連する世界遺産>
「サンギラン初期人類遺跡 Sangiran Early Man Site」
◆インドネシア◆1996年登録
「バーンチエン遺跡 Ban Chiang Archaeological Site」
◆タイ◆1992年登録
「レンゴン渓谷の考古遺産 Archaeological Heritage of the Lenggong Valley」
◆マレーシア◆2012年登録
陸の国、海の国
東南アジアを自然地理的にみると、大陸部(インドシナ半島)と島嶼部(マレー諸島)に区分されます。
大陸部には、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ、ベトナムの5か国。
島嶼部には、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポールの5か国と、東ティモール(ASEAN未加盟)が含まれます。
大陸部には北西のヒマラヤ山脈から延びる5本の山脈が走っていて、その間に、西からエーヤワディー川、サルウィン川、チャオプラヤー川、メコン川、ホン川(紅河)の5大河が流れています。大陸部ではこれらの流域に、農業を基盤とする国家が多く成立しているのが特徴です。
一方のマレー半島と大小の島々から成る島嶼部は、太平洋とインド洋を結ぶエリアで、古代から中国とインド、中東やヨーロッパを往来する海のシルクロードの要衝であり、海上交易を基盤とする港市国家が栄えたのが特徴といえます。
扶南 FOU-NAN <1~7世紀頃>
メコン川の下流域に紀元1世紀頃に興った国で、東南アジアで最も古い国家の一つとされます。クメール人(マレー系の民族という説もあり)による国家といわれ、現在のベトナム南部からカンボジアにかけて成立し、最盛期の3~5世紀頃にはマレー半島北部にまで勢力を広げたといわれます。扶南(ふなん)という名は中国の歴史書に見られる表記で、自称は不明。クメール語で「山」を意味する「プノム」の音写という説があります。
扶南はインドと中国の海上交易路の中継地として発展した港市国家で、インドから伝わったヒンドゥー教、シヴァ神信仰、サンスクリット語を取り入れた国家が形成されていたことが出土品などからわかっています。
扶南の最も賑わった港がタイ湾に面したオケオで、現在のベトナム南部にあるオケオの遺跡群からは、クシャーナ朝ガンダーラの仏像や神像、後漢の鏡、ローマ帝国の金貨などが出土。当時すでに東西の交易が活発に行われていたことを伝えています。
また、カンボジア南部のタケオ州にあるアンコール・ボレイ遺跡は、オケオとほぼ一直線の水路で結ばれていた城塞都市の跡で、いまだ確定されていない扶南国の都ヴィヤダプラの有力な候補地とされています。遺跡からは最古のクメール文字による碑文や彫刻が出土しているほか、約3.5㎞離れたプノン・バケン山の山頂には6世紀の建造といわれるプノン・ダ寺院が残されています。
扶南の繁栄は6世紀頃まで続きますが、王位継承をめぐる内紛や近隣国との戦争によりしだいに弱体化。7世紀初頭、メコン川中流域で勢力を拡大したクメール人の国家である真臘(しんろう)に攻め込まれて滅亡しました。
チャンパ CHAMPA <2世紀頃~1832年>
チャンパ王国は現在のベトナム中部から南部地域に、マレー系海洋民族のチャム族を中心として成立した国。当時のベトナム中部は中国・漢帝国の支配下にありましたが、192年頃に区連(くれん)という在地首長が自立し、独立王国を興したと伝わります。
チャンパ王国は南シナ海とタイ湾を結ぶ海上交易で栄え、自領の山地で採れる沈香(香木)や黒檀(木材)、象牙などの珍品が中国や西方に輸出されました。古くから日本にもチャンパの物や文化が伝わっており、正倉院に収められる香木の「蘭奢待(らんじゃたい)」や雅楽の「林邑楽」などが知られています。
文化的にはインドの影響を受け、現在のダナン近郊に、聖地ミーソン、王都シンハープラ(現在のチャキュウ)、交易港チャンパープラ(現在のホイアン)という、宗教、政治、経済の核となる都市群を建設。これらの遺構は、聖地ミーソンが「ミーソン聖域」として世界遺産に登録されているほか、王都一帯からの出土した彫刻や神像を一堂に集めた「チャム彫刻博物館」がダナン市内にあり、チャンパ王国の高度な文明、優れた芸術性を伝えています。
11世紀以降、北のベトナム(大越国)の勢力の拡大により、チャンパ王国の中心は南へ移行。現在のビンディン省クイニョン一帯には「ビンディン遺跡群」として、11~13世紀頃のチャンパ遺跡が8か所残っています。11世紀に建てられた銀塔、13世紀の金塔など、遺跡の多くは丘の上に立つ背の高いレンガ造りの堂塔が中心で、建築や装飾には隣国クメールの影響がみられるのが特徴です。
クイニョン以南にも「チャム塔」とよばれる同様の遺跡が多数残されています。
おもなものでは、ニャチャンにある「ポー・ナガール遺跡群」、ファンランからファンティエットにかけて点在する「ポー・ハイ遺跡群」が知られています。
15世紀以降、チャンパ王国の領土は南部のファンラン一帯を残すのみとなりましたが、16~17世紀の大航海時代にはヨーロッパ船も寄港する交易港として栄え、徳川家康もチャンパの伽羅(きゃら)を求めて朱印船を派遣しています。
その後、17世紀末にはベトナムのグエン朝に占領され、チャンパ王国は事実上滅亡。ベトナム支配下で王家の存続とチャム人領民の自治だけは認められましたが、1832年には特別自治も廃止され、ベトナムに吸収されました。
<チャンパに関連する世界遺産>
「ミーソン聖域 My Son Sanctuary」
◆ベトナム◆1999年登録
真臘 CHENLA <6~8世紀頃>
6世紀頃、現在のラオス南部のチャンパーサック地方に興ったクメール人の王国で、今日のカンボジア王国の起源とされる国です。「真臘」は中国の史書に見られる表記で、日本語読みで「しんろう」、現地クメール語では「チェンラ」とよばれています。
当初、真臘はメコン川中流域の山岳部で主に農耕を営んでいたクメール人の小王国で、550年頃までは南の扶南国の属国のような立場でした。7世紀はじめのイシャーナヴァルマン1世の時代に勢力を拡大し、628年頃には扶南国を占領。扶南の人や文化を吸収し、ほぼ現在のカンボジア全域からメコンデルタまでを支配しました。
この時代にイシャーナヴァルマン1世が建設した王都イシャナプラが、現在は世界遺産に登録されているサンボー・プレイクックといわれています。
真臘は650年頃に即位したジャヤヴァルマン1世の時代に最盛期を迎えますが、681年の王の死後は地方勢力が台頭し、混乱期に入ります。
8世紀初頭には、沿岸部とメコンデルタを中心とする「水真臘」と、内陸部を中心とする「陸真臘」が対立して、およそ100年にわたり分裂の時代が続きます。やがて水真臘はジャワ島のシャイレーンドラ朝の支配下に置かれるなどして、クメール人の統一国家としての真臘は解体。再統一は802年のアンコール朝の成立を待つことになります。
<真臘に関連する世界遺産>
「サンボー・プレイクックの寺院地区と古代イシャナプラの考古遺跡 Temple Zone of Sambor Prei Kuk, Archaeological Site of Ancient Ishanapura」
◆カンボジア◆2017年登録
「チャンパーサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺跡群 Vat Phou and Associated Ancient Settlements with the Champasak Cultural Landscape」
◆ラオス◆2001年登録
※「東南アジア王朝史~2」へ続く