東南アジア王朝史~5
15~17世紀は世界的な経済発展の時代で、各地で人口が増加し、「交易の時代」はますます活発化します。この時代は、それまでの王族や貴族だけが手に入れることができた贅沢品だけでなく、経済力を持つようになった広い階層の人々に向けた品々が大量に取引されるようになりました。こうしたなかで、大陸部では生産力のある新興国が次々に誕生し、周辺国との勢力争いを続けながら発展しました。
アユタヤ朝 AYUTTHAYA < 14~18世紀頃>
現在のタイ中部、チャオプラヤー川のほとりに14世紀中頃に成立したタイ族による王国。創設者ラーマティボーディー1世はウートーン王の名で知られ、タイ中部の小国の王家の出身であったといわれています。
アユタヤはチャオプラヤー川流域の稲作を中心とした農業を経済の基盤としながら、内陸部の産品を集めて輸出する海上交易の拠点としても発展。インド洋とタイ湾の両方にアクセスできる立地を生かし、14世紀末には東南アジアで最も栄えた国へと急成長します。15世紀には北のスコータイ王朝を併合、東のアンコール朝へ侵攻しその王都を陥落させます。さらにマレー半島へも進出し、マラッカ王国を一時的に属国化するなどして領土を広げました。
1569年、隣国ビルマのタウングー朝に敗れて属国となりましたが、1590年にはナレースワン王(サンペット2世)により主権を回復。マレー半島西岸の拠点を奪還し、交易ルートを復活させます。
17世紀にはヨーロッパはじめ世界各国の商人が集まり、アユタヤは国際交易都市として絶頂期を迎えます。日本からも山田長政など多くの浪人や商人が移り住み、アユタヤ日本人町には最盛期には1500人ほどの日本人が住んでいたといわれています。
その後、日本人やヨーロッパ人の台頭を嫌った官吏や仏僧勢力により、中国を除く外国人は排除され、17世紀後期には鎖国を行うなど、国際交易都市としての繁栄は徐々に衰退していきます。晩年は内乱が続き、1767年にビルマの攻撃を受けて王都は陥落。壮麗な仏教寺院や王宮であふれる都は徹底的に破壊され、およそ400年にわたるアユタヤ朝の歴史は終焉します。
<アユタヤ朝に関連する世界遺産>
「古都アユタヤ Historic City of Ayuttaya」
◆タイ◆1991年登録
ランサーン王朝 LANEXANG< 14~18世紀頃>
メコン川の中流域、シェントーン(現在のルアンパバーン)を拠点に、14世紀に成立したラオ族による統一王朝。ランサーンは「百万頭の象」を意味し、実際に象の軍団を中心とした強大な軍事力を誇ったといわれています。現在のラオスとほぼ同じ領域を支配し、今日のラオスの起源とされています。
初代ファーグム王は南のアンコール朝の王女と結婚し、上座部仏教を取り入れます。アンコールからは高僧や三蔵経、数千人に上るさまざまな職人が招かれたほか、スリランカから伝わったパバーン仏像が招来されました。
北の現在のベトナム、西のビルマの侵攻をたびたび受けながらも、同族であるタイ系王朝と協力をしながらこれを退けます。16世紀のセタティラート王の時代に防衛に適したビエンチャンへの遷都が行われ、新しい都には守護寺院タートルアンが建てられました。王が同時に統治していたランナー王国(現チェンマイ)からエメラルド仏が移され、王朝の守護仏とされました。この遷都をきっかけに、旧都シェントーンは、ルアンパバーン(パバーン仏の座す場所)と改名されました。
1574年にビエンチャンはビルマ軍に攻略され、しばらく混乱が続きましたが、17世紀のスリニャウォンサー王の時代に黄金期を迎えます。この時代は東南アジア全体で交易が活発になり、ビエンチャンからは山の産品がメコン川の水運や陸のルートを通じてアユタヤや近隣国に運ばれました。仏教や芸術などの文化面も大いに栄え、ラオス独自の建築や美術が発展しました。
18世紀に入るとスリニャウォンサー王の没後に王族間での対立が起こり、ランサーンはルアンパバーン王国、ビエンチャン王国、チャンパーサック王国の3つに分裂。1770年代末にはこれら三王国すべてがタイのトンブリー王朝の支配下に入り、守護仏のエメラルド仏もバンコクに移されました。
<ランサーン王朝に関連する世界遺産>
「ルアンパバーンの町 Town of Luang Prabang」
◆ラオス◆1995年登録
タウングー朝 TAUNGOO< 14~18世紀頃>
伝承によると、バガン朝滅亡後に当時は小さな村に過ぎなかったタウングーに多くのビルマ人難民が流入し、14世紀中頃に初代王ティンカバーがこの地に王宮を建設。バガン朝以来となるビルマ人の王朝を興したといわれています。
ダビンシュエーティー王の治世下で強大化したタウングー勢力はエーヤワディーデルタに進出し、1539年には交易と仏教の中心地として、またマッカとインドを結ぶ貿易の港として栄えたペグーを占領。ここに遷都して、バガン朝滅亡後250年ぶりにビルマ統一を成し遂げました。
その後、アユタヤやチェンマイ、ビエンチャンに侵攻していきますが、ペグーの港が土砂の堆積で使えなくなると次第に衰退。タウングー朝は16世紀末に一旦断絶します。
17世紀初頭にニャウンヤン朝(復興タウングー朝)として復活すると、王都をインワに置いて周辺国とも安定した関係を築き、全盛期を迎えます。
しかし、17世紀中頃になるとヨーロッパ勢力の進出やモン族の反乱に悩まされます。1752年、王都インワはモン族の軍に攻撃されて陥落。タウングー朝は滅亡しました。
黎(レ)朝 LE < 15~18世紀頃>
15世紀初頭、明の支配下にあったベトナムで、タインホアの豪族であった黎利(レ・ロイ)が挙兵。10年に及ぶ抗争の末に明軍の掃討に成功すると、1428年に皇帝に即位して黎(レ)朝を開きます。首都をハノイに置き、首都名をそれまでの昇龍(タンロン)から東京(トンキン)へと改めました。
王朝初期は、黎利とともに対明抗争を戦ったタインホア出身者と科挙試験で登用された紅河デルタ出身の官僚との間で対立が続き、不安定な状況が続きます。
15世紀後半にようやく安定期に入り、戦争流民の定住や農地の開拓、科挙制度や法制度の整備、儒学の普及が進みました。また、明の海禁政策により中国からの輸入が激減したことで、紅河デルタ地方で陶磁器や絹製品などの産業が盛んになり、経済が発展しました。
対外的にはラオスのランサーン王国への出兵といった軍事行動を行い、1471年には南のチャンパ王国の首都ヴィジャヤを占領。ベトナム中部にまで領土を拡大し、長年対立していたチャンパ王国を事実上の滅亡へと追い込みました。
16世紀になると次第に王権が弱まり、代わって有力な武将が実権を握るようになります。1527年には武人の莫登庸(マク・ダン・ズン)が王位を奪い、これによって黎朝は断絶します。
1532年に黎朝の末裔を指示して反乱を起こした阮(グエン)氏と、ハノイを奪還した鄭(チン)氏よって黎朝は再興を果たします。
その後、ベトナム中部と北部が対立したため国土は二分され、内戦状態が続きます。1771年にベトナム南部で蜂起した阮恵(グエン・フエ)によって中部・南部の両政権が滅ぼされると、皇帝は清の援軍を得て反撃に出ますが、これに失敗して清へ亡命。黎朝は滅亡しました。